kerottoteppeiのブログ

都内で地方公務員をしている27歳(♂)、動けるうちに街を散策する。鉄道や団地など「都市的なもの」に強く惹かれます。ここではその記録を。なお、記載事項の全ては筆者の所属する組織や団体とは一切関係がありません。

【雑感】こち亀終了を聞いて

幼少期に、ほとんど漫画というものを読まずに育ってしまった自分(かといって読書に励んでいたわけでもない)ですが、こち亀だけは例外でした。実は、家には50巻から150巻まで揃っていたりします。とはいえ、この10年ほどは読むことはなかったのですが、たまたま今年の初めに書店の漫画コーナーを眺めていたら、こち亀がずいぶんと分厚くなっていたことに驚きました。
通常は10話分ほどを1冊の単行本に収録しているそうですが、2年前に発売された191巻以降は15話分、ここ最近は17話分も収録していました。連載の開始が1976年の42号で、終了が2016年の42号。ちょうど40年です。そして、同日には最終話も収録した200巻が発売されることを思えば、191巻以降の増量も理解できます。この2年間で「終了」に向けて着々と準備は進んでいたんですね。

こち亀の魅力は、多くの人が言うように、その時々の「社会」や「流行」を反映しているところにあります。こうした作風は50巻以降強くなってきました。なので読んでいて、その時代時代の雰囲気が伝わってきますし、歴史にも遺らないような細かなエピソードまで反映されていますから、それはそれは貴重な歴史資料にもなります。

そして、こち亀は私の「下町」のイメージの土台を作ってくれました。作者自身が育った下町の文化や歴史、なにより街の雰囲気もよく描かれているからです。
ところで、「東京」と一言でいっても、そこには数え切れない多様な街の顔があります。その中でも「山の手」と「下町」の違いは大きいでしょう。それは「分断」という言葉で表してもいいほどに、大きいものがあると思います。
大雑把にいえば、山の手に住む人が仕事以外で隅田川を越える機会はなかなかないのです。もっといえば、浅草や銀座に行く機会もそうはありません(この点でスカイツリーの存在は大きい)。だいたいは渋谷、新宿、池袋で事が足りてしまい、山の手の人の流れがそこで止まってしまうのです。

目黒という山の手で幼少期を過ごした私も例外ではなく、下町という地域は遠い存在でした。そうした環境のなかで、下町の雰囲気を感じる貴重なツールになったのが、この作品だった。そんなことを今になって、しみじみと思います。
というのも、この数年、私は下町にどっぷり浸るようになってしまいました。山の手で育ち、山の手で働き続けることが決定的になってしまったからでしょうか、よくわかりませんが下町への関心が強くなってきました。今では「住むなら下町!」と思い、週に一度は下町に足を踏み入れています。そこには山の手とは違う、また別の顔を持った「東京」があるわけです。
そんな下町の「見方や魅力を教えてくれたのが、こち亀だった」とつくづく思います。

以前に『情熱大陸』に出演されていたときの話ですが、作者の秋本さんは幼い頃に父親を亡くされて、母親も病気がちだったそうです。高校を卒業して、アニメ関係の会社に勤めるものの、そこは激務で、母親の看病に週に一度行けるかどうかの状況に陥ってしまい、辞める決心をした直後に亡くなってしまいました。
そんな状況のなか、「少しでも自分を明るくさせるため」に描いたのがこち亀で、それがジャンプの公募作品に選ばれ、連載が始まったわけです。そういう経緯もあるからか、アシスタントを大事にすることを忘れません。彼らの生活のために、会社を立ち上げ、完全雇用を実現し、徹夜はもとより残業はなしを貫いています。
そうした中での「40年間一度も休載なし」なんですね。本当にお疲れさまでした。

私にはまだ単行本では50冊、時間にして10年ほどの空白があります。久しぶりにまた読み始めたいと思います。

村山団地① 東京都武蔵村山市

 団地ファンの間で取り上げられることが多いのが、いわゆる「公団(現在のUR都市再生機構)」が建てた団地なんですね。公団住宅はその規模はもとより、時には日本の住まい文化の新たな1ページを刻むような「傑作」を全国に建てきました。確かに注目されてしかるべきなんです。

 他方、同じ社会住宅でも公営住宅、いわゆる都営、県営、市営、区営と呼ばれる住宅は注目を浴びることが少なかったんですね。北青山アパート、戸山アパート、晴海アパートなど一部の都営住宅は「聖地」扱いされていますが、その規模においては最大級の団地群であるのに、村山団地や花畑団地などは脚光を浴びることがあまりありません。
 そこで「隠された魅力があるのではないか」と思い、遠路遥々、東京都武蔵村山市にある村山団地まで行ってきました。

 武蔵村山市は東京都にある23の区、そして26ある市の中で唯一鉄道が走っていない「鉄道空白地帯」の市です。村山団地は市の東部に位置しており、公共交通機関で行くためには多摩都市モノレールの上北台(東大和市)から20分ほど歩くか、もしくはJR立川駅または西武拝島線玉川上水駅東大和市)からバスで向かう、どちらかのルートになります。ちなみに、多摩都市モノレールは現在の終点である上北台から箱根ヶ崎(東京都西多摩郡瑞穂町)まで延伸する計画があって、武蔵村山市を含む沿線自治体が毎年(!)東京都へ要望書を提出しています。なかでも「鉄道空白地帯」の武蔵村山市はとりわけ熱心で、市のHPを見るとその気概がまじまじと伝わってきます。おそらくそう遠くない将来、この延伸計画は実現されると私は思っています。

 ともあれ、行きは玉川上水駅からバスのルートで向かいます。とりあえず新宿まで出て、そのあと西武新宿線へ乗り換えます。JRから西武新宿線へ乗り換える場合は、高田馬場で降りたほうがいいのですが、時間も気にしないので、新宿駅から西武新宿駅までの「微妙な距離(およそ700m)」を歩きます。
 もともと、西武新宿線新宿駅まで延伸する予定で、具体的には現在の新宿ルミネの2階に乗り入れる予定だったんですね(今も2階だけ天井が広いことが唯一確認できる遺構)。それが(諸説はありますが)旧国鉄や東急からの反発、そして同じグループの西武百貨店からの反対もあって頓挫してしまいました。
 その後、バブル期に再度、新宿駅への乗り入れ計画がありましたが、その時は高島屋に潰されてしまい、またも頓挫。なるほど、今度は現在のタカシマヤタイムズスクエアの場所を狙ったんですね。とはいえ、それ以降は具体的な計画もなく、おそらくこの「微妙な距離」は半ば永続的に続くのだと思います。

 さて、西武新宿駅から小平駅まで向かいます。
 急行だとスイスイと進みます。高架でもなく住宅密集地を駆け抜けこともあってか、体感速度は速い。しばらくすると西東京のシンボル「スカイタワー西東京」が見えてきて、「西東京に上陸」を実感(個人的には仮称である「田無タワー」のほうがしっくりきますが)。
 そんな沿線風景を眺めていると「西武は沿線開発には無関心だったんだな」ということをしみじみと思います。箱根や軽井沢、鎌倉などの沿線外の開発は熱心だっただけに、いっそう強く感じます。東急では「自由が丘(田園調布)」「二子玉川」「たまプラーザ」、小田急は「成城学園前」「新百合ヶ丘」、京急は「上大岡」、京王は「調布」「聖蹟桜ヶ丘」といった鉄道会社が中心となって街全体開発した駅(フラッグシップ駅とも言います)がないんですね。
 西武の場合、所沢は商業施設メインで、大泉学園は学園誘致に失敗しました。その代わりに開発の主体となったのは、東京都や日本住宅公団などの公的セクター。なので沿線には団地がとても多く立地しています(このあたりの話は、放送大学教授の原武史著作に詳しい)。

 そんなこんなで、小平から拝島線に乗り換えて玉川上水駅へ。ここは多摩都市モノレールとの乗り換え駅、また車両基地があることもあって駅の規模は大きいです。西武線の1日の乗降客数は約4万人。

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 駅前にはやはり都の公社が開発した団地があって、それを抜けると東大和南公園という都立公園があります。園内には、都内では貴重な戦争遺構である「旧日立航空機立川工場変電所」が保存されており、壁面には米軍の機銃掃射の跡が生々しく残っています。

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 この公園も、手前の団地ももともとは航空機の工場、「立川」の名の通り、戦前、立川は航空産業(現在の「立飛」にも名残があるように)を中心とした日本有数の「軍都」だったんですね。ちなみに拝島線は、もともと立川工場の専用線で、戦後、西武が買上げて転用した歴史があります。
 これらの歴史は簡単に風化してしまうので、この遺構は貴重だと思います。そして、実はこの変電所、1993年まで現役だったそうで驚きました。

 駅前に戻り、ここから目的地の「村山団地」行きのバスを待ちます。ところが、バス停に多くの人、しかも若い人が列をなしています(平日の15時くらい)。規模は大きいとはいえ、都営住宅へ向かうバス。たいていの場合は「高齢者が多い」のが相場で、この光景には驚きました。
 しばらく待つとバスが到着して、謎はすぐに解けました。そのバスの行き先が「イオンモール」、このバス停は「村山団地」と「イオンモール」行き、双方の利用客が使うとこでした。案の定、大半の人が「イオンモール」へ向かいます。バス停に残されたのは、やはり高齢者と私だけで、列にもならないたった4人でした。

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 また、武蔵村山市といえば「日産自動車村山工場」を思い浮かべる人もいるかもしれません。1962年にプリンス自動車(現在の日産自動車)の工場として操業を開始して以来、いわゆる「ゴーン・ショック」により閉鎖された2004年まで半世紀近く、日産の主力工場として多くの名車を生産してきました(GT-R発祥の地だったりします)。
 広大な跡地にはイオンモール(当初はダイヤモンドシティ)や病院などが建設されましたが、その3/4は宗教法人である真如苑が譲渡。市などと協議して「プロジェクトMURAYAMA(明治神宮一帯のような聖地構想?)」を進めているそうですが、これだけ広大な土地をひとつの宗教法人が手に入れたことに驚きです。近隣の立川市には、同じく真如苑の本部があるので、昔は「軍都」だった立川一帯の将来は「聖地」へと変わるのかもしれませんね。

 前フリがずいぶんと長くなりました。ここからようやく今回の目的地である村山団地へ向かいます。続きはページを改めて。